神経回路・可塑性
「神経ステロイドは脳海馬の記憶学習を制御するメディエータ」
■背景
新しい情報伝達物質のスーパーファミリーとして、神経ステロイドが脳神経で独自に合成されていることを発見したので、これがどういう機能をもつのか?を調べるのが課題。
情報伝達物質として勢力を2分するペプチド系と異なり、ステロイド系は長いあいだ脳では合成されないとされてきた。
図1 海馬神経で、記憶の書き込みLTPと消去LTDが行われるときに、同時にシナプスで神経ステロイド(男性・女性ホルモン)合成が起こり→ シナプスのステロイド受容体に作用して、急性的に LTPの強化やLTDの強化が行われる様子を、描いたモデル。
男性・女性ホルモンはスパイン(シナプス後部)の密度を維持して、シナプス伝達能力も維持する。
図2 海馬の男性ホルモン合成酵素 P450(17a) の組織染色(左)とそれがCA1神経細胞に局在していることを示した図(右)。海馬は精巣と独立に男性ホルモンを合成する。
中国の宦官は、脳が男性ホルモンを合成していたので、生殖器が無くても記憶力は低下しなかったわけです。
図3 海馬スライスの単一神経細胞に蛍光色素をマイクロインジェクションした図。
これを共焦点顕微鏡で3次元断層撮影し→Spiso-3D ソフトで解析してスパインの密度と頭部構造を解析する。
■研究概要 脳海馬での記憶のメカニズムを生物物理学と分子細胞生物学で解明する研究を行っている。神経シナプス伝達に伴う、電気信号、シナプスの構造変化、神経ステロイドによるモジュレーション、などを解析している。脳は論理的と言うよりも、感情的なコンピュータであり、脳海馬の記憶学習は感情・精神に強く依存している。感情・精神を制御する伝達物質の神経ステロイドは局所的に急性的に記憶学習を制御する。
■科学的・社会的意義 更年期や老化に伴ってアルツハイマー病などの認知症が問題になっている。男性・女性ステロイドの補充療法は認知症の有力な治療法であり、世界中で1000万人に適用されている。本研究は、このホルモン補充療法が如何に効果を発揮しているかの分子機構を明らかにする意義がある。
■参考文献
1) Hojo Y et al. (2004). PNAS 101, 865-870
2) Mukai H et al. (2007) J Neurochem 100, 950-967
3) Ooishi Y et al. (2012) Cereb Cortex 4, 926-936
4) Mukai H et al. (2011) Cereb Cortex 21, 2704-27011
5) Okamoto M. et al. (2012) PNAS 109, 13100-13105
■良く使用する材料・機器
1)多電極電気生理
2)顕微光イメージング・共焦点顕微鏡・シナプス解析ソフト
3)ステロイドの質量分析
H25年度分野別専門委員
東京大学・総合文化・広域科学
川戸 佳 (かわとすぐる)
https://glia.c.u-tokyo.ac.jp
「最先端計測法を駆使して、脳の高次機能の分子基盤を理解する」
■背景 生物物理学の得意とする分野は、なんと言っても最先端の計測法の開発と、その生体への応用でしょう。例えば、脳全体をシステムとして理解する上では、バイオイメージング法が大活躍しています。一方、神経細胞(ニューロン)1つの中の遺伝子発現量やまたタンパク質量の極微量の違いが、どのように神経回路の形成や可塑性に関与しているのかを解明することも重要です。われわれは独自にこの極微量な遺伝子やタンパク質を定量するための計測方法を開発し、それを応用することで脳を理解しようと努めています。
図1 ELISA法に酵素サイクリング法を組み合わせて、極微量のタンパク質を超高感度に測定する方法。
図2 脳の中から細胞1つを取り出してきて、その中の極微量なmRNAやタンパク質を定量すること。(A)細胞1つを取り出す前。(B)取り出した後。(C-E)取り出した細胞が本当に1つであるかを証明する実験。
図3 極微量でタンパク質が測定できるようになると、採血の量が少しで済むなど、人にやさしい検査が可能となる。
■研究概要
4つの塩基で決まる核酸(DNAまたはRNA)は、そのもの自体を増幅することができます。増幅できれば、どんなに極微量であっても、検出することも定量することも可能となります。この方法はPCR法と呼ばれ、現在はreal-time PCR法という方法が確立され、数コピーという極微量のDNAやRNAを定量することも可能となっています。しかし、タンパク質は増幅することができません(文献1)。そうなると、われわれがやるべきことは、タンパク質を検出するときのシグナルを増幅することになります。その目的のために、われわれはELISA法に酵素サイクリング法を組み合わせることによって、シグナルを増幅させることを考えました(図1)。現在、モデル系のタンパク質ならば10-20 mol(つまり数万個)さえあれば検出が可能なところまで高感度化することに成功しています(市販の測定系では10-12 から10-15 mol程度)。
この方法を用いて、神経が可塑性を起こしているときの、前シナプス細胞または後シナプス細胞たった1つのニューロンの中の特定のmRNAならびにタンパク質の極微量の変化を定量し、その分子基盤を明らかにしようとしています(図2)。例えば、転写調節因子の量が可塑性によって変化することが明らかとなってきています。またこのように細胞1個を取り出す技法も、われわれは独時に開発を進めており、実際に1細胞単離装置の開発に成功しました(文献2)。
■科学的・社会的意義 この極微量なタンパク質測定法は、脳の研究のみならず、発生・分化の研究、さらには各種病気に関わる診断試薬として応用されることが期待されています(図3)。
■参考文献
1)伊藤悦朗,渡部聡,伊藤敬三,米山祐樹 (2006). “1個の細胞の中の1個のタンパク質の定量を目指して”,バイオテクノロジージャーナル, (羊土社,東京)6: 609-612.
2)長沼圭一,米山祐樹,小林卓,伊藤悦朗 (2008). “生物学・医学分野におけるマイクロマニピュレーターの最前線 ~シングル・セル・アイソレーション・システムの開発~”,細胞分類・操作技術の最前線, (シーエムシー出版,東京)298-306.
■良く使用する材料・機器
1) システム生物顕微鏡 BX-50 (株式会社オリンパス)
2) 実験試薬 (和光純薬株式会社)
3) マニピュレーター (株式会社成茂科学器械研究所)
4) CCDカメラ、ホトマル (浜松ホトニクス株式会社)
H24年度分野別専門委員
徳島文理大学・香川薬学部・教授
伊藤 悦朗 (いとう えつろう)
https://kp.bunri-u.ac.jp/kph07/eito_lab/index.html
脳・神経系
(2009/01/28)
年会での様子を振り返りながら、日本生物物理学会の「脳・神経」分野について概観してみる。年会における「脳・神経」関連の発表は、例年おおむね20から30件くらいである。年会での発表件数が、毎年右上がりになっている本学会においては、他の分野と比べると、「脳・神経」が占める発表件数の比率は、以前に比べて多少下がっているかもしれない。
実際の研究内容を見てみると、細胞レベルでの反応、またはシグナルトランスダクションに関するものが多い。高次機能についての研究も多く進められており、学習記憶や認知などの研究もある。研究で取り扱われている実験動物は、ラット・マウス、サルなどの哺乳類に加えて、無脊椎動物である昆虫類(ショウジョウバエやミツバチ)、軟体動物のマキガイ類(アメフラシの仲間)、線虫、ミミズなど多岐にわたる。また最近では、ヒトを対象としている場合もある。実験手法は、電気生理と光学イメージングが大変多い。それ以外に、生化学、分子生物学、行動解析などもある。
国内外を問わず、他にももちろん「脳・神経」を研究している学会はある。それらとの比較をしてみよう。例えば、日本神経科学学会では、実験対象がラット・マウス、サルまたはヒトなどの哺乳類に特化していると思われる。一方、日本動物学会などでは、極めて多種多様な動物が並んでいる。それらをふまえると、日本生物物理学会の「脳・神経」研究では、程よく適材適所の実験対象が用いられており、結果として、どのような最新の技法でどのように神経生物学研究が現在発展しているのかを、カタログ的に勉強するのに丁度都合が良いといえる。
また、本学会の「脳・神経」の研究者には大きな特徴がある。これは日本生物物理学会全体の特徴のひとつかも知れないが、若い研究者は別として、ラボを率いているある程度の年齢の方々は、必ずしもご自身の学生時代の研究テーマは、「脳・神経」ではなかったと思われる。つまり、いろいろな分野から、「脳・神経」の魅力に引かれて「新規参入」された方が多いように見受けられる。しかしその分、研究内容はもちろんのこと、アイデアも新規性にあふれ、良い研究成果発表が目白押しである。
今後も、最新の解析技法を駆使しながら、「脳・神経」の分野は伸びて行くと思われる。さらなる展開のためには、工学系(ロボティクス)などへの発展も視野に入れるべきかもしれない。
神経細胞1個の単離
リアルタイムPCR法による記憶関連遺伝子のmRNA定量
徳島文理大学・香川薬学部 伊藤悦朗